社団法人東京慈恵会医科大学 同窓会

 
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2018年10月25日 「睫攘瓢粟萓犬別れ会」
平成30年9月29日(土)
於大学1号館講堂(三階)


お別れの辞
学校法人慈恵大学理事長
栗原敏

 本日、睫攘瓢粟萓犬別れ会を執り行うに際し、三笠宮鄂凌堂θ淇子殿下にご臨席賜り、学校法人慈恵大学を代表して心から厚く御礼申し上げます。
 睫攘瓢粟賁獲事の御霊に学校法人慈恵大学を代表して心から哀悼の意を表します。睫收萓犬蓮学祖・高木兼寛先生の曽孫にあたり、その出自から慈恵大学の象徴として常に注目を集め、先生の温和な人柄は、多くの方の心を和ませ慕われていました。
 先生は昭和48年東京慈恵会医科大学をご卒業になり、ご尊父文一先生の影響と思われますが、病理学者の道を歩まれることになり研鑽されていました。しかし、先生は大学幹部から、将来、大学運営を担うことを期待され、平成11年1月に理事に就任し、大学の管理・運営に携わることになったのであります。病理学講座を離れ、全く異なる職務に就いた先生は、人生の岐路に立たされたと言っていいかと思います。
 私は平成13年1月に学長に選任され、睫收賁獲事と共に、大学の管理運営を担うことになりました。同じ基礎医学を志すものとして、また、学生時代は硬式庭球部員として共に過ごしたことなどから、お互いに相通じるところがありました。また、平成15年8月に、突然、私が岡村哲夫理事長から理事長職を受け継ぐことになり、睫收賁獲事から、“私は先生を補佐するのが仕事です”と言われたことを思い出します。学祖の血を受け継いでいる睫收萓犬、私のような者を助けるというのは、恐れ多いことだと感じていました。時代はめまぐるしく変わり、大学は様々な改革に取り組まなくてはなりません。また、社会的責任を問われることもしばしば起こります。よき同僚なくして理事長職を全うすることは不可能です。
 私が理事長を受け継いだ直後、青戸病院医療事故が発覚し、マスコミから集中砲火を浴びる中、我々、役員はその対応に追われました。睫收賁獲事は、和解に向けて粘り強くご遺族と話し合われました。同時に、私はNHKの聖域なき取材を受け入れ、記者会見を行い、大学としての社会的責任を果たしたのであります。その最中、科学研究費違反問題、臨床医学研究所の研究費不正申請問題が相次いで明るみに出て、大学は三重の苦しみを味わったのであります。これらの問題では、睫收賁獲事が積極的に問題解決に努力され、共に記者会見に臨んだことを思い出します。睫收萓犬桓身は、このような不祥事に対処する中、専務理事として一層逞しくなり、“試練は人を強くする”という言葉を実感させられました。
 先生は、医学科教授会議、看護学科教授会議にオブザーバーとして、また、大学の倫理委員会には長いこと委員として出席されるなど、教職員と大学との懸け橋となって大学運営に尽力されました。また、同窓会理事会、慈大新聞編集委員会にも出席され、同窓と大学との絆を強められ“ともに歩む慈恵”が現実のものとなるように努められました。
 本学が今日に至るまで、経済的に困難な時を迎えたことが幾度かありました。明治時代には、東京慈恵医院の運営が困窮し、渋澤栄一氏のご尽力によって社団法人東京慈恵会が設立され、現在は、公益社団法人東京慈恵会として継承されています。睫收賁獲事は、東京慈恵会の理事として運営に尽力されるとともに、東京慈恵会と大学とのまさに懸け橋としてその役割を果たされたのであります。先生に最もふさわしい役割だったのではないでしょうか。東京慈恵会総裁の三笠宮鄂凌堂θ淇子殿下や徳川恒孝会長とのご親交は、慈恵の伝統が継承されていることを実感させられ、このようなことは先生にしかできないと感じ入っていました。
 先生は大学入学前から硬式庭球に才能を発揮し、入学と同時に硬式庭球部員として試合に出場して活躍され、慈恵医大に睫擇△蠅噺世錣譴討い燭里任△蠅泙后B感噺紊發簡貽架諭奥様と一緒にテニスを楽しまれ、テニスは先生の生活の一部だったのです。しかし、腰痛や椎間板ヘルニアに悩まされ続けました。また、平成18年には膀胱がんに罹患し手術を受けられました。日常生活が困難な中、懸命に職責を果たそうと努力される先生の姿に、高木兼寛先生の精神を継承するという強い意志を感じたのであります。
 しかし、昨年9月体調不良を訴えられ検査の結果、すい臓がんの疑いで手術を受けられました。術後の栄養摂取が十分でないため、体力の消耗は激しく、テニスで鍛えた強靭な肉体と精神は力尽きたのであります。日々、現在進捗している新外来棟や小児周産期センターが入る北棟の工事現場を病室から眺めながら、その竣工を見ることが叶わなかった先生の胸中には、様々な思いが去来していたに違いありません。本年、6月26日、ご気分がよく、先生は専務理事室にご家族、医師、看護師と共に来られ、その折、私の部屋で写真を撮りました。先生と一緒に撮った最後の写真となってしまいました。
 人との出会いには必ず別れがありますが、先生とこのように早くお別れの時を迎えようとは考えてもいませんでした。“良い人生とは良い人との出会いだ”という言葉がありますが、先生と出会って共に大学に尽くすことができたことは、私にとって掛け替えのないことだったと実感しています。
 先生の御霊のご安寧を心から祈念するとともに、慈恵大学のこれからの歩みを天上からお見守りください。


お別れの言葉
東京慈恵会医科大学学長
松藤 千弥

 東京慈恵会医科大学を代表して、睫攘瓢粟萓犬悗隆脅佞醗ヅ蕕琉佞鮃め、お別れのことばを申し述べます。
 先生は慈恵医大の十年先輩で、先生は病理学、私は栄養学と分野は異なりましたが、同じ基礎医学に進んだことから、よく声をかけてくださいました。しかし先生は、私が大学院在学中の昭和62年に米国スタンフォード大学に留学、平成元年に帰国後は第三病院病理部勤務となられたので、しばらくの間、接する機会はほとんどありませんでした。
 先生と一緒に仕事をするようになったのは、平成11年に先生が専務理事に就任されてからのことです。その頃から、私も倫理委員会や将来構想の委員会など、大学の管理運営に関わるようになっていました。一研究者に過ぎなかった私は、大学のさまざまな活動における責任や権限の所在を明確にすることの重要性、すなわちガバナンスを、先生から初めて教えていただいたのだと思っています。また、どんなことでも慈恵らしく、品格を保ってやらなければならないということも、言葉で、あるいは行動を通じて教えていただきました。
 その後、私は大学全体の医学教育により深く関わるようになり、医学科のカリキュラム委員長や教学委員長を務めました。教育にはお金がかかります。専務理事にはいろいろなお願いをしなければなりません。カリキュラム委員長をしていた頃、6年生の医師国家試験の模擬試験の受験料を大学で出して欲しいというお願いに行ったことがあります。睫收萓犬呂海錣ご蕕濃笋力辰鯤垢い討い董⊆鵑鮟弔砲録兇蕕覆い里任靴拭私は必死になっていろいろ理由を並べ、最後には、6年生には講義をしていないのだから、教育にお金がかかっていない、その分を当てて欲しいと言い張りました。するとわずかな間の後、突然にっこりされ、「うまいことを言うね」と支出を認めてくださったのでした。
 カリキュラム委員長在任中、私は、臨床実習の週数を増やしたり、臨床の講義の一コマの時間を短くしたり、学生にも教職員にも負担をかけるカリキュラム変更を矢継ぎ早に行いました。その後、教学委員長になったとき、睫收萓犬「しばらくの間は、カリキュラムをいじくるより、中身を充実させなさい」とアドバイスしてくださったのをよく覚えています。
 私が学長になってからは、先生のすぐ近くで仕事をするようになり、先生がまさに心骨を削って大学のために働くお姿を目の当たりにしました。折しも、本学で行われた降圧薬臨床試験の不正が問題となった時期であり、先生は先頭を切って対応に当たり、連日夜遅くまで仕事をされていました。さらに翌年、今度は別の研究費不正問題が発覚しました。先生は、こちらの問題については直接の対応を大きく私に任せ、ご自身はアドバイス役に回りました。大学としては決して名誉なことではありませんでしたが、私は多くを学びました。先生の、後輩を育てる人材育成者としての顔が、こういったところにも見えるのです。
 私が大学のために何かをしようとしたとき、睫收萓犬呂い弔盒瓩にいて、見守り、支え、導いてくださったことに、改めて気づかされます。これは私だけのことではなく、誰に対しても先生はそうされていたのだと思います。
 先生は、大学の内部だけでなく、東京慈恵会、慈大同窓会、そして学祖の故郷宮崎などと大学の間をつなぐ大切な役割も担われていました。そのご貢献はあまりにも大きく、今後どのように体制を立て直すのか、簡単には答えが見つからないでいます。
 先生からは、教わらなければならないことが、まだまだたくさんありました。70歳という若さで先生を病魔に奪われたことは痛恨の極みです。先生のためにも、まだ治らない病気の克服に向けて、私たち皆で医学・医療を前進させなければなりません。併せて、今行っている大学の事業をしっかりやり遂げ、創立150年、200年に向けて、慈恵らしい大学創りを推し進めることをお約束して、お別れのことばといたします。


お別れの言葉
東京慈恵会医科大学附属病院院長
丸毛 啓史

 睫收萓検⇒召蠅砲眩瓩、急に旅立たれてしまいました。悲しく、残念でなりません。
 先生と初めてお会いしたのは、私が高校二年生の、丁度、今頃の季節です。先生が成蹊高校のテニスコートに突然こられ、金網のフェンス越しに、睫擇世韻鼻△叛爾鬚けられました。私は都大会の戦績が載ったドローをよく見ていましたので、すぐに、デビスカップ選手になられた坂井さんと決勝戦を戦った睫擇気鵑世箸錣りました。そのことを申し上げたところ、微笑んでおられた先生の表情をよく覚えています。今から47年前の話です。ずいぶん後になってから、先生が、「あの時、お前がわかってくれて本当にほっとした。」と仰っていました。
 その後も、テニス部の先輩として、また、先生が専務理事になられてからは整形外科学講座のことでも大変お世話になり、ご心配をいただきました。私が病院長に就任してからは、先生と話しをする機会がとても増えました。多くは、病院の諸問題に関する話でした。先生は大学・病院全体の今と将来を考えながら、一つ一つの問題に対して常に我が事のように深く考えて意見を述べておられました。先生にも私心があったのでしょうか? そうだとしてもその第一番目は慈恵大学のことであったに違いないと思います。先生は私たちの、そして慈恵大学のとても気さくな象徴的存在であり続けました。
 先生とは年に3〜4回はゴルフをご一緒させていただきました。しかし、テニスで同じコートに立ったことはありませんでした。テニスもやれよと言われながら、教授職が終わったら再開しますと申しあげてきました。こんなことになるならと思うと、残念でなりません。
 先生がご病気になり、入院されてからは、よく、土曜日の午後に病室に伺い、時には1時間以上もいろいろな話をさせていただきました。最後にお会いしたときに、夏のゴルフの後に食べたスイカの話をされていました。「あれは本当にうまいんだよな」と言ってニコニコしておられました。ゴルフ場でスイカを食べる度に先生を思い出すと思います。先生、長い間本当にありがとうございました。お世話になりました。どうぞ安らかにお休みください。


お別れの言葉
東京慈恵会医科大学病理学講座教授
池上雅博

 睫攘瓢粟萓犬里肝鄙阿法病理学講座を代表し、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 睫收萓検△い弔皺罅垢涼羶瓦任い蕕辰靴磴辰神萓犬糧疂鵑棒椶掘⊃爾と瓩靴澆吠颪泙譴討ります。
 先生は、今から12年前、平成18年9月に膀胱癌のため膀胱を摘出されました。約1年後の平成19年11月に肺に陰影が出現し、癌の転移が疑われ、肺の部分切除が施行されましたが、幸にも癌の転移ではなく、我々一同胸をなでおろしたことがありました。先生は奇跡的にも膀胱癌から回復され、腰痛に苦しみながらも独特な歩き方で、お元気な姿をみせて下さっておりました。しかし、昨年の秋に閉塞性黄疸が発症し、4回の細胞診、5回の生検が行われましたが診断がつかず、CT画像上陰影が拡大傾向にあったため膵頭十二指腸切除がおこなわれました。細胞診・生検で診断できなかったことから、なんとか炎症であることを祈っておりましたが、膵臓の低分化型腺癌でありました。癌であることが判明した後にも、お見舞いに参りますと、「回復したら、またみんなで焼肉を食べに行こう」と力強くおっしゃられ、また逆に常に私の健康を心配して下さいました。前回の経験から今回も先生は癌に打ち勝ってくださり、まだまだ力不足の我々に檄を飛ばして下さる日を待ち望んでおりました。何とか奇跡が起こらないかと思いましたが、病床に伏されて約7カ月、ついに力つかれました。我々の悲しみは深く、この現実を受け入れることができずにおります。
 先生は昭和48年に病理学教室に入られ、以来平成11年に大学専務理事になられるまで、26年間病理学教室で剖検、組織診断、研究、我々医師の教育、学生教育に力を尽くされました。
 私が病理に入りました昭和56年には、年間300体を超える剖検がありました。剖検当番は朝9時〜夜8時までの受付で、日に2体・3体の剖検を行うことも珍しくありませんでした。夜8時を過ぎて剖検依頼があった際には翌日に行うことも可能でしたが、睫收萓犬聾羂簑欧竜せちやよりよい組織診断のことを考え、必ず「その日のうちにやろう」と言われ、先生とはよく夜中に剖検を行ったのが今ではよい思い出です。私をはじめ、数人の医師が先生に剖検のご指導を受けましたが、先生の指導は、特に剖検に対し厳しかったことが思いだされます。ご遺体の入室時から送り出すまでの礼儀作法から、メス・包丁・ハサミの研ぎかたと使い方、臓器の取り出し、切り出し方をはじめ、ご遺体を痛めないよう丁寧かつ手早く、効率的に剖検を行い、常に1時間〜2時間以内に終了するよう厳しく指導されました。剖検の度ごとに終始怒鳴られどうしであり、先生との剖検は、本当に怖く、厳しく、時に先生に憎しみを抱かせるほどのものでありました。また、当時新人は、剖検した症例の組織標本を約1年間、自分たちで作成したものですが、最初の数回は何度も作り直しを命じられたものです。しかし、この厳しい指導のおかげで全員が、病理医としての最も基本となる剖検に自信をもって臨めていることを、今では感謝しております。
 先生は、研究と診断面では当時最先端であった免疫組織化学染色の技術を、病理学教室の中でもいち早く修得され、我々にその方法・解析の仕方を指導してくださいました。そして、先生は、免疫組織化学染色を用いてリンパ節病変、特に悪性リンパ腫の診断において、卓越した能力を発揮され、病理医はもとより、臨床の先生方からの信頼が非常に厚かったことが思いだされます。当時先生は我々後輩の研究における免疫組織化学染色についての指導・相談を行うばかりでなく、臨床の先生方の研究に対しても相当の援助をしていらっしゃいました。ある放射線科の先生の研究のため、数百枚の免疫染色と解析を1週間でおこなうこともされていらっしゃいました。先生は、ご自分の研究よりも、常に我々後輩の指導や臨床医の研究の手伝いを優先して考えておられ、御自分のことをされない睫收萓犬法当時教授であられた石川先生、藍澤先生、牛込先生は、相当に心を痛めていらっしゃいました。
 睫收萓犬隼笋蓮∪蹊高校での先輩・後輩の間柄であります。あるとき私が友人とのことに悩んでいるのをごらんになって、「池、友人というものは作るものではなく、できるものだ」とおっしゃられました。このとき私は、「名家にお生まれの先生と私では立場が違います。一般人出身の私には、友人は作らないとできません」と答えましたが、先生がどうしてこのようなことをおっしゃったのか、永年疑問でした。しかし、あの時先生はもっと深い意味で言われたと最近になって気づきます。成蹊学園のモットーに「桃李もの言わざれども下自ずから蹊をなす」という言葉があります。その意味は、「桃やすももは何も言わないが、美しい花にひかれて人が集まり、その下には自然に道ができる。すなわち、徳のある者は弁舌を用いなくても、人はその徳を慕って集まり帰服する」という意味であります。当時、表面的な意味でしか捉えることができなかった自分に恥じ入るばかりですが、そのような優れた人間になれ、との意味だったと思い当たりました。
 先生が我々の目標であって、永遠に先生のもとで病理の仕事をしていけるものと思っておりました。しかし、先生が病理学講座を去り、理事になられると聞きいたときのショックの大きさは計り知れないものがありました。その時、私と二階堂先生とで、「先生は、まだ病理でやり残したものがあるはずだ」などと生意気なことを言い、思いとどまってくださるように頼んだことがありました。あの時は大変失礼なことを申しました。先生は、笑って、だまってお酒をついでくださいました。あの時は、自分達から先生という大きい存在がなくなるという、不安のみしか考えられず、慈恵医大というもっと大きい、そして大勢の人々が先生を必要としていることに考えをめぐらせることができませんでした。
 先生は病理を去ってしまわれましたが、その後も高い所から我々を見守ってくださいました。現在の病理学講座と病院病理部との関係、世界にも誇れる病理換気システムの導入、10年間で二度にわたる病院病理部の移動など、その時々に我々の要望に耳を傾けていただきました。
 睫收萓犬いらしたからこそ、我々は安心してそれぞれの役割に没頭できていました。いらっしゃらなくなり、今さらながらその存在の大きさを認識いたします。非常に若くして旅立たれてしまい、今は悲しみと空虚感につつまれておりますが、「いつまでも俺に頼るな、自分で考えて何とかしろ」と剖検を通じて先生が言われたように、我々に新たな試練を与えてくださったものと思い、先生のご遺志をしっかり受け継ぎ我々一同、一丸となって慈恵医大の発展に力を注ぐ覚悟です。
 睫收萓検△い泙泙破榲にありがとうございました。
 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。


お別れの言葉
東京慈恵会医科大学同窓会会長
高橋 紀久雄

 敬三君。今日ここで君に別れの言葉を述べるのは、とても悲しいことですが、悲しいより悔しい想いで一杯です。まだまだ、これからもっと楽しい人生を謳歌して頂きたかったからです。
 昭和43年頃、同僚のテニスの試合を応援に行ったとき、その勇姿に出会いました。「慈恵のテニス部にすごい選手が居るんだ」という強烈な印象を覚えております。その後はそれぞれ異なる道に進みましたので、お目にかかることも有りませんでした。
 敬三君は、平成15年6月、丁度僕と同じ時期に慈恵医大同窓会の理事になられ、同窓会の仕事に関わるようになりました。君は大学と同窓会の間に立って、大学と同窓会が密接な関係を保てるように、様々なご配慮をして頂き、ご助言下さった事に今でも感謝しております。
 大学の専務理事として心身共に大変ご苦労なさっていた平成22〜3年ころに「先生は大分お疲れのようなので、同窓会の仕事は他の方に譲って、仕事を減らしては如何でしょうか」と申し上げたことがあります。そのとき、君は「同窓会に行くとホッとするので、是非続けさせて下さい」と仰いました。それならば、同窓会は敬三君の癒やしの場になるようにしなければと思い、今まで務めてきましたが、まだその結果を伺うことが出来ていません。
 充分癒やされたでしょうか。
 君は、自他共に認める愛煙家でした。最近は愛煙家にとって逆境の時代です。同窓会事務局でも、学内外の行事での喫煙所でもいつも一緒に、近年流行の加熱たばこには目もくれず、紙巻きたばこを美味しそうに吸いながら、「僕たちは意志が強いね、たばこは文化ですからね」等と、にこやかにたばこ談義をしたことも思い出します。愛煙家が減ってしまったのはちょっと残念ですが、君の意志は僕が継承していきます。
 最後は、なんと言っても「睫攘瓢阿肇乾襯奸廚力辰砲覆蠅泙后ゴルフをこよなく愛し、仲間とのゴルフの話、新しいクラブの話など話題に尽きませんでした。最高の想い出は平成26年に開催された第30回私立八医科大学役員ゴルフ大会です。
 睫攘瓢偉┐い覯罎慈恵大学が、東邦大学の六連覇を阻止して見事に優勝した事です。表彰式では参加者全員で抱き合い少年のようにはしゃいで喜びました。このときの敬三君のとても嬉しそうな姿がいまだに脳裏に焼き付いていて忘れることは出来ません。
 敬三君…、同じ年代であり同じ時代を生きて慈恵を愛し、慈恵大学の為に働いてきた同志である僕も間もなくそちらに行きます。美味しい紙巻きたばこを沢山・沢山購入し、腰痛を抱えていた君の体型・独特のスウィングに合ったピカピカのゴルフクラブを担いで参りますから、どうかそれまで待っていて下さい。


睫攘瓢粟萓犬慣侘

1947(昭和22)年10月16日 神奈川県大磯生まれ
1966(昭和41)年4月   成蹊高等学校卒業
1967(昭和42)年4月   東京慈恵会医科大学入学
1973(昭和48)年3月   東京慈恵会医科大学卒業
1973(昭和48)年5月   東京慈恵会医科大学
 病理学講座第2 助 手
1986(昭和61)年4月   東京慈恵会医科大学
病理学講座第1 助 手
1987(昭和62)年2月   東京慈恵会医科大学
病理学講座第1 講 師
1996(平成8)年10月   東京慈恵会医科大学
病理学講座第1 助教授
1998(平成10)年4月   東京慈恵会医科大学
大学直属 助教授
1998(平成10)年12月   学校法人慈恵大学 評議員就任
1999(平成11)年1月   学校法人慈恵大学 専務理事就任
1999(平成11)年2月   東京慈恵会医科大学 大学直属教授
2001(平成13)年7月   公益社団法人東京慈恵会 理事
2008(平成20)年12月   公益社団法人東京慈恵会
総合医学研究センター長
2018(平成30)年7月29日 逝去 享年70歳










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