社団法人東京慈恵会医科大学 同窓会

 
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2019年04月25日 大学講座シリーズ
「外科学講座 血管外科」
外科学講座統括責任者 血管外科担当教授 大木 隆生


【沿革】
 慈恵医大外科はわが国における血管外科の黎明期を担ってきた数少ない施設の一つで、その源流は1963年発足の綿貫外科(旧第一外科)にある。綿貫拔擬は臨床として心臓外科を、研究班の一つに「代用臓器班」を立ち上げた。この研究班の中心は山本敬雄先生(昭23卒)で、腎移植や国産人工血管の研究を行った。チームはやがて「血管班」と呼ばれるようになり、基礎研究では血管の機能を探求し、臨床面では血管外科手技確立と人工血管の開発を手がけた。一方、臨床においては新井達太教授が初代心臓外科教授として綿貫外科から独立したことや血管手術の対象となる症例自体が少なかった事から「血管班」は診療班には至らなかった。
 1980年代になると変化が出始める。「血管外科」を標榜する大学病院が国内で少しずつ現れてきたのである。桜井健司教授(昭31卒、1981年就任)時代、「血管班」を率いていたのは中興の祖である赤羽紀武先生(昭37卒)で私も赤羽先生に指導を受けた一人である。桜井外科時代には「血管班」は臨床的に血管手術に特化するように変わっていたが、正式に本院で「血管外科」が標榜されたのは、講座統合の流れで第3病院外科の伊坪喜八郎先生(昭31卒)が旧第一外科教授を兼任した1995年になってからである。この頃、第三病院外科では萩原博道先生(昭51卒)が血管外科の灯しを繋いだ。その後、現在の原型となる大講座に属する三分野の一つとして小児・血管外科分野が創設され山崎洋次先生(昭47卒)が初代分野担当教授に就任し、2001年にかつて4つ存在した独立外科が統合し現在の外科学講座に引き継がれていった。2006年に私が米国から帰国し山崎洋次教授の後任として着任し現在に至る。

【激動の立ち上げと現況】
 慈恵医大血管外科のスタッフは13年前、私が着任した当時は本院にのみ存在し本院の血管外科医は僅か2名であったが、2019年1月現在、総勢25名と血管外科としては日本有数の規模に成長した(図1)。本院は私を含めて8名体制となり、医局員の成長と増員に伴い順次、慈恵医大柏病院、埼玉県立循環器呼吸器病センター、厚木市立病院、新百合ヶ丘総合病院、AOI国際病院の五施設に血管外科を立ち上げた。
 血管外科の診療と研究で信条としているのは「完成された手術はない(全ての手術に改善の余地がある)」である。また、血管外科ではもっぱら良性疾患を扱っているため手術不能の壁は悪性疾患と違い技術的ハードルにより規定される。イノベーションにより手術不能の壁に挑み、血管病患者の「最後の砦」となる事を使命とした。
 また、着任以来、「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」出演を始めとするテレビ番組出演24本、血管外科の教科書2冊(医学書院)と新書1冊(集英社)を執筆し、さらに、文藝春秋「日本の顔」を含む数十本の新聞・週刊誌の記事として取り上げられたので後述する大動脈瘤手術件数が50倍と激増したのと併せて、慈恵医大青戸病院事件後に存亡の危機に立たされていた本学と求心力を失っていた外科学講座がその後V字回復をする先鞭をつけたのが血管外科であった。ただ、この貢献の代償も高かった。2007年には外科学講座統括責任者に指名された上に少数の不慣れなスタッフで全国から押し寄せる手術不能患者を、全員私が外来で診察し、手術をしていたので週1日の外来日は5ブース使って三食抜きで診療しても18時間を要した。患者・家族との信頼関係構築に心血を注ぎ、忙しくても一人一人の患者と真剣に向き合い、新患には全例、平均文字数2,700字の報告書を書き、手抜きはしなかった。早朝に外来が終わり、そのまま翌日の手術室に向かったこともしばしばあった。外来日以外の日は手術室を3室並列で使いながら早朝から深夜まで文字通り身を粉にして働いた。多い時は大動脈瘤手術を一日で6件こなした。毎月の時間外労働は300時間程度(過労死ラインは80時間)と過酷で、過労のため私は着任以来、肺炎、壊死性リンパ節炎、化膿性脊椎炎などで4回の入院を余儀なくされた。医局員も尿路結石、脳梗塞を患うほど多忙を極めた。これほど過酷な勤務を目の当たりにしても、怯むことなく我々の背中を見て入局した志高い若手外科医が大勢いたことは誇らしいだけでなく、今時の若者も捨てたものではないと感じた。入局者は全国12大学から集結した。また、2006年時は診療報酬稼働額は32の診療科の中で最下位であったが着任3年目で首位に躍り出た。
 診療の各論では、当科では頭蓋内ならびに心臓以外の血管病すべてを扱っている。すなわち、頚動脈狭窄症、内臓動脈瘤、腎動脈狭窄症、下肢閉塞性動脈硬化症、静脈疾患、そして胸部と腹部大動脈瘤を対象としている。すべての血管疾患に対して、内科的治療、外科手術と、ステントグラフトを中心とした血管内治療、さらに両者を組み合わせたハイブリッド手術をバイアスなく、個々の患者にとってベストの治療法を選択している点が誇らしい。内頸動脈狭窄症では世界最小規模である3僂両切開で行う慈大式内膜剥離術とそれを可能にする機器を開発し良好な成績を得ている。大動脈瘤に関しては、私の着任初年度に60件の腹部大動脈瘤ステントグラフト術を施行したが、これはこの年、日本全国で施行された実施数の50%であり、当科が早期に地位を確立した。現在ではほぼすべての胸部・腹部大動脈瘤に対応している。特に手術不能症例に対する特殊な枝付きステントグラフト手術は世界的に見ても有数の施設となっている。比較的稀な末梢動脈瘤や内臓動脈瘤においても当科は日本トップクラスの手術数を誇る。一方、下肢領域における治療はまさに当科の伝統を引き継ぐ分野で、最先端のステント治療やバイパス術を中心に、下肢救済の観点から保存療法にも力を入れている。さらに、関係各科と共に東京都大動脈スーパーネットワークにも参画し急性大動脈解離・大動脈瘤破裂にも24時間・365日体制で対応しているが、ファーストタッチはすべて覚悟と信念を持った血管外科医が担当している事をお知りおき頂きたい。

【手術実績】
 私が着任した2006年から2017年までの総手術件数は7,598例であり、その内訳は胸部・胸腹部大動脈瘤の手術が1,422例、腹部大動脈瘤の手術が2,026六件、閉塞性動脈硬化症の手術が1,716件、その他の手術が2,434件であった(図2)。2005年以前は大動脈瘤手術を年間で415件しか施行していなかったので、件数ベースでも診療報酬稼働額でも着任後は約50倍と激増した。特に誇らしいのは、以前は手術不能症例を治療できていなかったが、2006年以降に施行した大動脈瘤手術3,448例の内、他施設で技術的に困難であるため手術不能と宣告された症例が1,266例(37%)も含まれていたことであり、「イノベーションにより手術不能の壁に挑む」を目標として掲げた当科の面目躍如である。
(枝付きステント)
 弓部大動脈瘤、胸腹部大動脈瘤や慢性解離性大動脈瘤に対する外科手術はあらゆる手術の中でも最も侵襲の高い部類に属するため手術困難/不能と判断される症例が少なくなく、治療の最後の砦となる枝付きステントグラフト術は当科の象徴的手術である。弓部大動脈瘤に対しては、当科で考案したRIBS法(Retrograde In-situ Branched tentgrafting)を基礎実験を経て2009年から臨床導入した(図3)。RIBS法では瘤空置と頸部分枝の血流温存という二律背反を成し遂げる術式で第60回国際脈管学会でLifetime Research Achievement Awardを受賞した。現在、RIBS法の製品化に向けて大手企業と共同開発中である。

【研究】
 日本で新規医療機器承認が欧米に比して遅いいわゆるデバイスラグを解消するため日本初を含む15件の国際共同治験を施行した。中には承認が米国より本邦の方が先であるという逆デバイスラグ現象を生じる快挙を達成し本邦のデバイスラグ問題解決に貢献した。この出来事は朝日新聞一面トップを飾った。手術器具においては、オリジナルハサミやカンシ類12種類を含むOHKIインベンツを開発し全国250以上の病院に納入した実績がある。
 基礎研究は生物学的なものと工学的手法の二本立てで行っている。再生医学研究部(岡野洋尚教授)と共同で、マーモセットの脊髄梗塞モデルを作成し、細胞移植による脊髄再生の研究と小口径人工血管の研究を進めている。また、工学的なものとしては、大動脈解離モデルを作成し真腔・偽腔の流体力学的研究や、ステントの金属疲労の解明と対策を早稲田大学 先端生命医科学センター(TWINS、岩崎清隆教授)と共同で行っている。

【学会主催】
 2006年に帰国と同時にJapan Endovas-cular Symposium(JES)研究会を立ち上げた。これは当時日本には存在しなかった血管手術がライブで供覧できる研究会でいくつもの日本初の手術を紹介した。その後、ライブ手術を取り巻く環境が厳しくなり、2016年以降はビデオライブを中心とした構成としたが、それらはすべて反省・死亡症例とし実臨床で大いに役立っていると自負している。これまで計13回のJESの参加のべ人数は13,000人を超えた。JESが存在しなかったらステントグラフト普及率50%強というパラタイムシフトに留まらず、日本における血管外科の立場が現在と少なからず変わっていた事は自他共に認めるところである。また、昨年は第60回国際脈管学会を主催し(図4)、令和元年8月には第14回JESと供に第25回日本血管内治療学会を開催する予定である。

【最後に】
 2006年に米国Alb-ert Einstein医科大学血管外科教授の椅子を投げ打って12年ぶりの帰国を決めたのは、窮地にあった母校と外科の再興への寄与、慈恵の後輩の育成、さらに日本人の患者を救う事にトキメキを見出したからである。覚悟の要る決断だったが迷いはなかった。慈恵医大と外科のリバイバルプランは血管外科医が2名しかいない事などから、容易ならざるものであることは明らかであった。実際、筆舌に尽くしがたい激務と激動の日々で、文字通り満身創痍だった。もう一度やれと言われてもできない。しかし、今この原稿を執筆していて、帰国したことに対しても、必死で走り抜けた13年を振り返っても後悔は一分もない。戦後日本が焼け野原から高度経済成長期へと躍進した黄金期に重なる夢のような日々を今、清々しい想いと心地よい達成感で振りつつ、次なるトキメキと使命に軸足を移している次第である。










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