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東京慈恵医科大学同窓会

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2022年02月25日 定年退任にあたって
皮膚科学講座 太田有史教授


 私と慈恵医大との出会いは、幼稚園のころ父(有五)に連れられて、故土肥淳一郎教授の田園調布のご自宅を訪問したことに始まる。父は土肥先生のことを親しみと敬意を込めて「親父」と呼んでいた。毎年、夏開催されるgarden partyであり多摩川の花火大会に合わせた納涼会でもあった。幼少の私達(双子)は、他の医局員の先生にはやし立てられ広い庭をかけずり回っていたのを覚えている。舞台の見世物(?)という意識はなかったが、当時、双子は珍しかったのか、やんややんや喝采を浴びたようである。そのせいかあるいは父が趣味で児童劇団(つみき座)で芝居を打っていたのをしばしば観ていたためか慈恵医大在学中もその後も演劇をよく見に行った。実際に、進学過程の国領祭ではドイツ語を教えていただいた藏原惟治先生に演出をして頂いた。また、愛宕祭では、にわか演劇同好会でオリジナル脚本(同級の平瀬雄一先生の書下ろしで「さまよえるオランダ人」)を故赤羽武夫先生の口利きで歌舞伎座の長谷川大道具の方々に舞台をこしらえて頂いて、催した。「オランダ人」を演じたのは現精神経科主任教授の繁田雅弘先生である。彼の濃厚な演技は評判になった。懐かしい思い出である。
 昭和57年慈恵医大を卒業。人生の岐路としての基礎か臨床かの選択に迷いに迷ったが、当時第1生理学教室に在籍していらした森本先生のお言葉に従いあっさり皮膚科を選んだ。以降、研修医時代も含めて4人の皮膚科主任教授の下で診療、研究をすることになるとは夢想だにしなかった。2代目主任教授の新村眞人先生との出会いは劇的であった。雲の上の人であった新村先生自らReck-linghausen病の研究をしてみないかと私に問われたことがあった。個人的に声をかけて頂くことなどあり得ないと思っていた私はこのとき天上人の声を聴いた心持ちになったのは忘れない。Recklingha-usen病遺伝子の発見者のひとりであるユタ大学のVisckochil先生のもとで研究する機会を得、帰国後も厚生労働省神経皮膚症候群班会議の「付き人」として意見を述べている。これもわたしの我儘を許して下さった新村眞人先生、中川秀己先生そして朝比奈昭彦先生に心から深謝したいと思う。平々凡々のぐうたら人生、40年間有難う御座いました。今更ながら私は生かされていることを痛感します。

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