同窓会トップ > 同窓会の歴史
東京慈恵会医科大学同窓会
同窓会の歴史〜その源流と発展〜東京慈恵会医科大学同窓会(以下、同窓会という)は学校法人慈恵大学(以下、大学という)と同様古い歴史を持っている。ここにその設立の経緯について述べるが同窓会は本質的に大学と切り離す事はできないので、大学の歴史を併記しながら、当時をたどる。
黎明期
- 明治14年
(1881) - 学祖高木兼寛、松山棟庵を中心として「成医会講習所」を設立。これが今日の東京慈恵会医科大学の始祖である。
- 明治18年
(1885) -
第1回卒業生7名が巣立ち、第6回までに合計73名が卒業した。
*同窓会の設立が遅れた一番の理由は、成医会が長い間、同窓会的な役割を果たしていた為である。 元来、成医会は出身学校の差別なく一般医師の入会を許し、特に初期には多数の海軍軍医が参加していた。 そのため、母校の出身者だけを会員とした独自の同窓会を持ちたいという希望は早くからあり、 その機運は明治20年前後から高まってきたのである。 - 明治23年
(1890) - 講習所が発展的に改組され、成医学校の名による卒業証書を授与。ここに初めて学校としての形態を備える様になった。
- 明治24年
(1891) - 成医学校は「東京慈恵医院医学校」と改称された。
揺籃期
- 明治25年
(1892) - 9月成医学校第7回の卒業生10数名により『旧成医学校同窓会』が結成。 当時までの卒業生総数はまだ113名と少なかったが、初めて母校の名称のついた同窓会として注目される。 しかし、その活動は単なる親睦会に過ぎなかったようである。
- 明治26年
(1893) - 成医会講習所以来の卒業生36名が高木校長及び実吉次長を招待し「第1回懇親会」を開催した。
- 明治33年
(1900) - 4月15日 第12回懇親会が開かれ、新卒業生等により『東京慈恵医院医学校同志会』をつくった。
- 明治36年
(1903) - 6月専門学校令に基づき、「私立東京慈恵医院医学専門学校」が認可され、10月に同志会は解散し成医会に合流した。 この年から卒業生すべてが成医会会員となるよう規則が改められ、同窓会的な役割をますます深めていった。
- 明治40年
(1907) - 10月24日 社団法人東京慈恵会の発会式が挙行。
- 明治41年
(1908) - 「私立東京慈恵会医院医学専門学校」と改称。
- 明治43年
(1910) - 『東京慈恵会医院医学専門学校同窓会』が発足、 春秋2回会合することを決めたが、その後の活動については資料がなく不明である。
- 大正7年
(1918) - 12月大学令が公布された。
- 大正10年
(1921) -
10月19日 文部省より「東京慈恵会医科大学」設立が認可され、成医会東京府支部が発足した。
*大学への昇格は母校に新時代を到来せしめ、全国的同窓会結成の機運を促進した。 特に東京・神奈川という地理的に大学から近い地域では、同窓生も多く同窓会活動が活発であった。 - 大正11年
(1922) - 成医会東京府支部は東京慈恵会医科大学東京同窓会と改称し、大学のお膝元としての地の利を活かし、 同窓会の要として活動を行った。
- 大正12年
(1923) -
9月1日 関東大震災で母校は灰燼と化し、存亡の危機に直面したが、 全国の同窓は一致団結して大学の復興に力を合わせ、見舞金の寄贈など多大な貢献をした。
*こうした時代背景とともに同窓の結束はますます強化され、全国的広がりをもつ同窓会組織結成へと向かった。
全国同窓会の設立
- 大正14年
(1925) -
4月11日 東京同窓会の席上、議案として全国同窓会設立の件が提出され、満場一致で承認された。 続いて『東京慈恵会医科大学同窓会』の名のもとに、成医会の春季総会を廃し全国的同窓会を発足「第1回同窓会総会」が開催され、 「慈大愛宕新聞」を同窓会機関紙とする事となった。 当時までの卒業生累計は2,386 名に達し、その出身地も全国的な広がりを見せた。
公的に認められている同窓会の原点は法令で規定された大学又は専門学校にあり、これまでの同窓の集まりは発足後中断したり、 名称を変えたり、会員も東京近辺に限られていたり、現在まで継承されている組織ではなかった。 その意味でもこの大正14年は名実ともに遜色のない同窓会組織といえるものが発足した記念すべき年である。
飛躍する同窓会活動
- 昭和30年
(1955) - 3月 従来の任意団体から、同窓会館の建設を契機として『社団法人東京慈恵会医科大学同窓会』となり、 6月22日付けで文部省から認可された。この年までの卒業生総数は実に7,094名の大所帯となった。
- 昭和60年
(1985) - 卒業生総数が10,000名を超えた。
- 平成4年
(1992) - 4月 大学に医学部看護学科が併設された。
- 平成15年
(2003) - 同窓会に看護学科支部が開設された。
- 平成20年
(2008) - 4月 千葉支部を改組して新たに千葉東葛支部、千葉葛南支部、千葉房総支部が設置され、 同窓会支部は全国で86支部となった。
- 平成22年
(2010) - 10月 同窓会設立85周年、大学創立130年記念行事が、大学・同窓会の共催で盛大に行われた。 『ともに歩む慈恵』を合い言葉に、大学と同窓の絆はなお一層強固なものとなった。
- 平成24年
(2012) -
5月19日 『東京慈恵会医科大学同窓会』(任意団体)発足
*平成20年の公益法人制度改革に伴い、従来の社団法人を平成24年(2012)12月31日に解散し、任意団体として再出発した。 組織の形態は変遷するが、会員の為の同窓会・母校を支援する同窓会という2本の柱は次世代に継承され、今後も活動する。 - 平成27年
(2015) - 10月 同窓会設立90周年記念式典および祝賀会が大学との合同開催で盛大に行われ、400名を超える同窓会員が出席した。
同窓会事業
同窓会の柱である機関紙「慈大愛宕新聞」(大正14年3月15日創刊)は、昭和15年に学友会会報及び予科学生会報と合流して「慈大新聞」と名称を変えた。その後、第二次世界大戦前後の中断を乗り越え昭和22年復刊第1号が刊行され、 昭和32年9月から現在の年間12回の定期刊行となり平成25年9月には706号を数えるに至った。 慈大新聞は同窓会ならびに大学の現況の記録紙として、また種々の情報紙として重要な役割を果たしている。
平成17年には広報活動に欠かせないホームページも開設された。
もう一つの重要な事業として、昭和55年大学創立100年を機に設立された「同窓会振興基金」があり、同窓の災害見舞い、各種表彰、 後輩に対する育英などの資金として運用されていた。 特に平成23年3月の東日本大震災の際には、被災された同窓に対して振興基金から支援を実施し、また同時に全国の会員より多額の災害義援金が届けられた。
平成24年5月に同窓会は任意団体に移行し、「振興基金」は「振興資金」と名称を変更したが、事業内容は変わることなく会員のために運用している。
同窓会の母校への貢献
過去の同窓会の母校への貢献は数多く、主なものだけでも前述の関東大震災時の募金にはじまり、 終戦後の昭和21年(1946)大学復興のための「東京慈恵会医科大学振興会」に対する協力、さらに昭和34年(1959)7月18日第11回臨時支部長会議を開催、 附属病院の建設計画に協力する為、大学拡充後援委員会を結成し、学債の募集に積極的に参加、昭和36年には目標額3億円を突破した。続いて、昭和36年以後の「創立85年記念事業」、昭和50年以後の「創立100年記念事業」、平成12年以降の「創立120周年記念事業」が行われ、 現在は平成22年以降の「創立130年記念事業」へと続いている。 さらに、平成23年6月〜平成25年3月には社団法人の解散に際し、同窓会の残余資産2億6千万円余を学校法人慈恵大学に寄付した。
歴代学長が『同窓は大学の宝である』、『同窓会と大学は車の両輪』と表現されているように、同窓会と大学は表裏一体、 運命共同体として連携を強めながら歩み続けている。
ここに、記録が明らかな昭和30年以降の歴代同窓会長の氏名を掲げる。
氏 名 | 卒 年 | 在 任 期 間 |
---|---|---|
寺田正中 | 大正4年 | 昭和30年(1955)− 昭和32年(1957) |
矢崎芳夫 | 大正6年 | 昭和32年(1957)− 昭和34年(1959) |
樋口一成 | 昭和3年 | 昭和34年(1959)− 昭和50年(1975) |
曽根田義男 | 昭和2年 | 昭和51年(1976)− 昭和56年(1981) |
大平一郎 | 昭和14年 | 昭和56年(1981)− 平成元年(1989) |
八家正俊 | 昭和16年後期 | 平成元年(1989)− 平成3年(1991) |
今野享彦 | 昭和20年 | 平成3年(1991)− 平成7年(1995) |
諸川 薫 | 昭和27年 | 平成7年(1995)− 平成11年(1999) |
小田泰治 | 昭和28年 | 平成11年(1999)− 平成15年(2003) |
岩田正晴 | 昭和30年 | 平成15年(2003)− 平成19年(2007) |
足立信一 | 昭和32年 | 平成19年(2007)− 平成21年(2009) |
霜礼次郎 | 昭和37年 | 平成21年(2009)− 平成23年 (2011) |
高橋紀久雄 | 昭和45年 | 平成23年(2011)− 令和元年(2019) |
穎川一信 | 昭和54年 | 令和元年(2019)− 令和4年(2022) |
武石昌則 | 昭和56年 | 令和4年(2022)− |