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東京慈恵医科大学同窓会

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2021年04月25日 歴史紀行

東京慈恵会医科大学同窓会 設立100周年記念に向けて(シリーズ2)
東京慈恵会医科大学同窓会長 穎川一信

慈恵の歌(第一学生歌)
「曙満ち来る」

 慈恵の歌(第一学生歌)「曙満ち来る」の誕生までの経緯は、慈大新聞平成19(2007)年4月第629号の歴史紀行「学生歌ゆかりの地を巡って」「曙満ち来る 歌い継がれて80年」に詳細に掲載されているが、若い同窓、そして令和3年の新入学生の皆さんにも認識していただきたく、新たに誕生の経緯を掲載した。楽譜と共に、QRコードで実際の「曙満ち来る」を聞き、歌い、覚えていただくことで、慈恵の一員としての自覚と誇りを持っていただいたいと願っている。

 慈大愛宕新聞大正14(1925)年5月第3號1面に「全国同窓会成る」と同時に「校歌のこと」というタイトルで校歌についての記載がある。それまで歌っていた校歌は東京慈恵医院医学専門学校からのものであり、かなり時代離れしたものであったことから、また大正10(1921)年に文部省より東京慈恵会医科大学への昇格が認可されたこともあり、どうしても新しい校歌は生まれなければならないと新しい校歌を切望していたことが明記されている。当時は、院歌、校歌と学生歌があったが、これらの歌は実に難しい節回しで歌いにくくて本当に歌っている人も少なく、遂に「冬枯れ果てし」のみが校歌として残った。もっと活気に満ちた歌で荘厳でもあり、誰でも容易に歌える歌で、愛宕の気分に酔って歌い出し、歌い出すところに愛宕の気みなぎる、そういう歌を望むとあった。そして大正14年5月、6月の愛宕新聞では「校歌懸賞募集」のタイトルで、本大学の気分に適応し英気あり荘厳なる歌詞を募ると広告を出している。しかし、その後適応する歌詞がなかったのであろうか、募集結果報告は見当たらないままに、新しい校歌がお披露目になるのにはさらに数年を要した。昭和2(1927)年2月の愛宕新聞には「行き悩む校歌問題を見つめて」のタイトルで、理想の校歌は6年の学窓を通じて忘れがたい記念でなければならない。本学が大学に昇格して以来6カ月がたち、東京慈恵会医科大学として第1回の卒業生を世に送るわけで、この門出こそ待ちに待った喜びであるが、今の校風の沈滞せる如きは、1面に於いて校歌問題に多大の関係を有するのではあるまいか。校歌の定めなき学園は国是なき国に等しい。校歌問題は緊急にして重大であり、関係諸氏に対しては尚一層理解あるご後援を希う、とある。そして、昭和2年6月に予科学生会が発足し、昭和3(1928)年には予科の修業年限が3年となり、同年9月には予科の校地が芝区愛宕町(現港区西新橋)から荏原郡東調布町(現大田区南久が原)に移された。新たな出発にあたって東京慈恵会医科大学学生歌が生れたと東京慈恵会医科大学100年史に記載がある。現在の第1学生歌である(写真1)。
 慈大新聞平成8(1996)年7月第500号の緑陰随想に穴沢養一先輩(昭2)が「音楽部発足と第1学生歌の誕生」と題して、第1学生歌の誕生のいきさつを書いている。新校歌を望む声が高まる中、音楽部の合唱部員からも他大学のようにプログラムの中で歌う校歌の要望が出て、当時音楽部の合唱指導であった大和田愛羅氏(童謡「汽車」今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るぞと、の作曲家)に作曲をお願いし、詩人川路柳虹氏に、作詞料100円のところを生徒のカンパにて集まった80円で勘弁願って作詞をしていただいた、とある。具体的に第1学生歌がいつ誕生したかを検証すると、昭和2年2月の愛宕新聞記事と、穴沢先輩は当時学部4年生で合唱部のマンドリン部の責任者であり、卒業は3月31日であったことから、昭和2年の2月から3月ごろと考えられる。しかし、学生歌が卒業式で歌われるようになるのにはさらなる年月を必要とした。
 慈大新聞昭和63(1988)年9月第406号「学生歌の事ども」によれば、山本清先輩(昭13)が学部4年の時にそれまで口移しで教えられていた学生歌を正しい姿で残そうと企画した時に、第1学生歌だけではレコードが片面で終わってしまうので、新たに第2学生歌を募集し、曲を付けてもう片面に入れたとある。本学のオーケストラと合唱団により日本コロムビア株式会社で製造されたこのレコードはその後のレコードやカセットの原盤である。学生歌はその後もより力強く継承され、大学創立85年(昭和40年)には、赤羽武夫教授が中心となり、本学の男声合唱団を起用し日本ビクター株式会社で制作された学生歌のレコードが記念品として配布され、平成19(2007)年には学生歌誕生80年を記念してCDとして復刻された(既述、慈大新聞第629号「歴史紀行 曙満ち来る 歌い継がれて80年」、写真2)。このように予科学生会の出発にあたって学生歌が生まれ、上級生から新入生へ、世代を超えて「曙満ち来る」は歌い継がれて現在に至っている。
 学生歌がいつから校歌として歌われたかを検証してみると、愛宕新聞昭和7(1932)年4月号によれば、卒業証書授与式は、「君が代の合唱に始まり……校歌『冬枯れ果てし』を合唱して散会。」とある。一方、昭和6(1931)年3月号には、学生会主催の惜別の会が、「開会の辞、校歌合唱……」で始まり、「閉会の時に続き、『曙満ち来る潮の如く』と学生歌を高らかに合唱し散会した。」とある。この当時、学生会主催の会では、既に学生歌が歌われるようになっていた。その後、昭和15(1950)年までの卒業式は最初に国歌「君が代」の斉唱で始まり、萬歳三唱で終了することが多かったようであり、卒業式での校歌の斉唱は見当たらなかった。学生歌はもっぱら学生会主催の送別会、惜別の会や予科移転記念大運動会(写真3)等では歌われていた。戦後、昭和31(1956)年の卒業式では「学生歌の演奏」との記載があり、昭和33(1958)年の卒業式では「一同学生歌を斉唱、卒業式を終了した」と明記してある(慈大新聞昭和33年3月第56号)。その後、昭和34(1959)年の卒業式からは国歌斉唱で始まり、最後に学生歌を斉唱して終了している。学生歌の誕生から約30年を経て、昭和31年から学生歌が校歌の役割を果たすようになったと考えられる(写真4)。
 大学創立130年記念式典(平成22年)では記念品として慈恵の歌(学生歌)新録音CDが記念式典出席者に贈られた(写真5)。学生歌を「慈恵医大の歌」と位置づけ、「曙満ち来る」を「学内外の全慈恵人を結ぶ歌」「慈恵の歌」としたことを、高木敬三大学専務理事が創立130年記念事業報告で述べた。「第1学生歌」は名実ともに慈恵のうたであり、全慈恵人を1つに結ぶ校歌となった。
 現在、入学式や卒業式では最後に「曙満ち来る」を斉唱して式を終了しており、同窓会の評議員会、総会、定期支部長会議、懇親会等では最初に「曙満ち来る」を斉唱して会を始めている。現状のコロナ禍においては慈恵の歌「曙満ち来る」は流れるが、声を出しての斉唱はできないので各自が心の中で歌っている。昨年、入学式ができずに令和3年に入学式を行った令和2年入学の学生諸君、そして令和3年新入学の皆さんにはこの機会に第1学生歌を覚えていただき、慈恵に入学した自覚と誇りを持っていただきたい。
 同窓一同、大きな声で「曙満ち来る」を斉唱できる日が待ち遠しいと思っている。

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