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東京慈恵医科大学同窓会

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2021年06月25日 特別寄稿 創立以来140年間にみる
「慈恵イズム」とオリンピック


1、はじめに
 2回目の東京オリンピックが開催されようとしている。オリンピックという言葉を知ったのは、中学2年の時。戦後日本が初めて参加した、昭和27年ヘルシンキ五輪大会で、唯一の金メダルを獲得した、レスリング競技に出場した石井庄八選手であった。奇しくも小学校の先輩であった。監督の「八田イズム」はスパルタ的で、子供がてらに驚きながらも、オリンピックに夢を託すようになった。
 昭和33年、憧れの慈恵医大に入学し、剣道部を復活創設し、東医体、医歯 薬大会で個人優勝を果し、樋口一成学長からお褒めの言葉をいただいた。
 樋口学長は、慈恵在学中に、極東オリンピックに日本代表の水泳選手として出場した。(写真?)昭和39年には、東京オリンピックが開催され、日本女子バレーボールが、回転レシーブという技を使って、強敵ロシアを破り金メダル。監督の「大松イズム」が、世界を沸かした。
 今回、創立140年を迎えた慈恵医大が、当時の最新医学を取り入れ、他に追随を許さない発展とその努力について、在学、在局中の教えの中から、老兵ながら述べてみたい。

2、スポーツ選手の「心・技・体」
A・心
 慈恵医大の建学の精神「病気を診ずして病人を診よ」は、病人の心にまでの気配りが必要であるという事を意味している。
 又、精神科初代教授の森田正馬先生の「森田療法」については、直に講義を聴く事ができた。「あるがまま」という「禅」的な考え方をとり入れた療法と解釈した。
 ?禅とは何か?。近年になって、日本の学者が、慈恵の近くにある青
松寺の僧の脳波を計測したところ、三昧の境地に入った時に、α波が計測されたという。非常に興味深い。
B・技
 前述の如く、樋口学長は、水泳で日本代表選手であり、戦前の留学時代から戦後のオリンピックの発展に尽力したのである。特に、昭和35年ローマ五輪では、日本選手団の団長格で参加、多くのスポーツ選手を育成した。当時、慈恵医大現職の学長も兼ねて、激務であったに違いない。大変な偉人であられた。樋口学長から?慈心妙手?という言葉をいただいた。
C・体
 本学、生理学教室は、昭和39年、東京オリンピックの開催に向けて、初代教授浦本政三郎先生(特)以来の伝統である筋力・体力面での選手強化の支援を行っていた事を記憶している。金メダル獲得に寄与し、筋生理の研究の他、多くの業績を挙げて、第7代名取禮二学長は文化勲章に輝いた。そして、第8代阿部正和学長からは「医はアート」であると。

3、新しい行動科学の開発への道
 昭和47年(1972年)開業して間もなく、剣道部OB戦で、アキレス腱完全断裂のアクシデントを体験。PTSDを経験して、竹刀を銃に持ち替えた。6年間のハード・トレーニングを経て、昭和54年(1979年)全日本クレー射撃選手権大会に於いて、日本新記録で優勝。翌年のモスクワ五輪の候補選手となるが日本は不参加。(写真?)
 以後、日体協強化委員、世界射撃連合医事委員の委嘱を受け、日本及び世界のメダリストの医学的研究に携わる。「心と脳と行動」を中心とした、日本の選手が勝つための「メンタルマネジメント」(表?)を完成させる事ができた。チームドクターとして選手の指導にあたり、ロス五輪で金メダル。ソウル五輪では、千葉県の水泳選手の鈴木大地氏の指導を行い、バサロキックにより金メダル。バルセロナ五輪では、射撃チームの総監督として、銀メダル・銅メダルを獲得する事ができた。(写真???)

4、おわりに
 紙面の都合で、詳しくは述べる事が出来ないが、「心・技・体」は、永い慈恵の歴史の上に育まれたものであり、まさしく?慈恵イズム?と言っても過言ではない。医学の最先端を走り続ける努力が、これから50年、100年先のプランが企画されていると聴く。「共に歩む」若き同窓に期待して筆を置く。

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