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東京慈恵医科大学同窓会

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2021年12月25日 お別れの言葉 松藤千弥学長

東京慈恵会医科大学学長
松藤 千弥

 東京慈恵会医科大学を代表して、岡村哲夫先生のご逝去を悼み、生前のご貢献、ご指導への深い感謝の意を込めて、お別れのことばを申し述べます。
 先生は平成4年(1992年)12月に、阿部正和先生の後任として第九代学長に就かれ、4期8年間お務めになりました。ご就任の半年後には「本学の個性化及び活性化などのための方策について」という諮問を慈恵大学100年記念事業委員会に付されました。それに対する最終答申が平成7年(1995年)3月に提出されると、先生は直ちに、そこに示された教育、研究、診療、管理・運営並びに施設の4つの分野における大胆な改革に着手されました。先生が大学の活性化だけでなく、その個性化についても諮問されたことはまことに重要なことでした。これによって本学の改革とその後の発展は、建学の精神やイギリス医学の伝統といった本学の原点に回帰する基本理念に貫かれたものになったのです。
 先生は、教育分野では、教学委員会を中心として、学内の教員からなるチームを結成し、改革案をまとめ実行していく手法をとりました。平成8年度に早くも導入された医学科の新カリキュラムには、6年一貫教育、コース・ユニット制、演習・実習の拡充、専門教育における臓器別三層スパイラル構造など、極めて先進的な特徴が盛り込まれ、いまだに本学の医学科カリキュラムの基本として形を残していることに、驚きを覚えます。
 研究分野では、それまで個々の研究者に任されていた研究推進を、附属研究施設を活用し、大学として戦略的に推し進める方法を取り入れられました。西新橋キャンパスにはDNA医学研究所が、第3と柏には、それぞれ高次元医用画像工学研究所と臨床医学研究所が整備されました。このうちDNA医学研究所は、文部科学省のハイテク・リサーチセンターを経てバイオベンチャー研究開発拠点となり、その事業費によって大学1号館の研究施設が整備されたのです。
 先生は、平成7年(1995年)から理事長を兼任し、診療や、管理・運営並びに施設の分野における改革を加速されました。病院の診療科と講座の再編は当時としては挑戦的ともいえるほど斬新なものであり、中央棟の建設、母子医療センターの開設と併せて、本学の活性化と個性化につながった大きなご功績だといえるでしょう。
 また、先生は高木兼寛先生のふるさとである宮崎とのつながりを大切にされました。それは建学の精神への回帰の一環だったのでしょう。平成11年(1999年)には宮崎市で行われた高木兼寛生誕150周年式典にご参列、記念講演会で「病気を診ずして病人を診よ」と題する講演を行い、同年に発足した高木兼寛顕彰会の初代名誉顧問もお務めになったのです。
 実は、私自身は、岡村先生が学長に就任する直前にアメリカに留学し、約3年間日本を離れていたので、岡村改革の初期の現場に居合わすことができませんでした。しかし、1995年に帰国した際には、変化した大学を実感いたしました。その後、新カリキュラムにおける教育担当者のひとりとして、また、DNA医学研究所を中心とした全学的研究プロジェクトの一メンバーとして活動させていただきました。先生が栗原敏先生に学長のバトンを渡されてから12年後、縁あって私がそのバトンを引き継ぐことになりました。このとき、岡村先生はとても喜んでくださったと聞いております。
 そして、私が先生の改革者としての偉大さを本当に知ったのは、学長を拝命してからのことでした。先生が改革によってめざした、活気に満ち、個性的な大学づくりはまだ道半ばです。しかし、先生が指し示してくださった方向に着実に近づいていると思います。私は先生の後を継ぐ者として、先生の思いを未来に引き渡す役割を果たせれば誠に光栄です。
 最後に、先生がご著書「医を考える」に潜ませた、先生の研究観をご紹介いたします。それは、この本が上梓された際「謹呈のしおり」に書かれていたもので、先生らしいものの見方、表現の仕方が現れていると思います。
 「表紙の青は すべての生きものの場・自然 海の・空の・地球の青を
 DNAの連続模様は 研究発展の大きな可能性を
 左の白は 発展の暴走を阻止すべき叡智を
 意味しています」
岡村哲夫先生、本当にありがとうございました。安らかにお休みください。

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